任天堂社長、岩田聡の訃報

 任天堂社長、岩田聡の逝去が7月13日に報じられた。

 氏はプログラマとしてHAL研究所に入社。『バルーンファイト』等の開発にかかわる。1992年にハル研代表取締役となり経営建て直しに成功。任天堂の社長に就任したのは2002年。2004年にはニンテンドーDS(二画面+タッチパネル)、2006年にはWii(振って操作するリモコン)を発売し、ゲーム人口拡大のために新しいデバイスによる新しい遊びを打ち出してきた。
 ゲームの開発スタッフにインタビューするコーナー「社長が訊く」(2006年から)、ユーザに情報を"直接お届け"する「Nintendo Direct」(2011年から)など、プロモーションで前面に出てくる機会が多かった。

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 『MOTHER2 ギーグの逆襲』の攻略本には巻末にスタッフのプロフィールがずらりと並んでいるものがあって(もちろん「かっこいいとおもうもの」等への回答を含む)、岩田社長を初めて見た時に「糸井重里のすぐ下の方に載ってた人かな?」と思い出した。 *1


 糸井重里が代表を務める「ほぼ日刊イトイ新聞」では、岩田社長が登場した代表的な記事がまとめられている。


 岩田聡プログラマとしても非凡だというエピソードで有名なのは、やはりMOTHER2だろう。

 開発が頓挫しかかっていたところに途中から呼ばれ現場で丸4年分の素材をチェック、完成する流れにはなっていない中で言い放った言葉が「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」。そして実際に半年で通しで遊べるところまで持って行き、あと半年で細かい部分を調整した。(あくまで自分が解決したのはプログラム上の問題であって)4年間の試行錯誤はゲームの中に活きているとフォローを入れつつ、糸井重里の遊びのアイデアに話がつながっていく。
 余談。上記の対談のベテラン進行役、永田氏は元ファミ通編集者「風のように永田」で、私は氏の文章(攻略記事ではなくコラム)のファンだった。著書『ゲームの話をしよう』をオススメしたいところだが、まだ電子書籍化はされていないか……。

 もうひとつ。ポケモン金銀の開発が難航していて人員に余裕がない時期に、金銀の海外版や対戦用ソフト『ポケモンスタジアム』の企画も進めなければならない。そこで(他人が作った)ゲームボーイの戦闘プログラムを読み取って、移植しても動くよう作り直す仕事を担当したのが、当時HAL研究所の岩田社長だったという話。

 ハートゴールドソウルシルバーはリメイク版。オリジナルの金銀の開発には3年半かかったという。当時コロコロでデンリュウハガネールといった新ポケモンの情報が出てから発売までが、とても長く感じられた。たぶん延期の告知もあったはずだし、子供にとってはなおさらだ。まあ生意気なもので「アニメやカードゲームも含めポケモンがブームなのに、今この熱がある間に続編を出さないメーカーは何をやってるんだ」みたいなことを言っていた自分が恥ずかしい。「素人が思いつくことをプロが考えてないとでも?」案件だ。


 こちらはドワンゴ川上量生との対談記事。

 岩田聡は優れたプログラマでもあった……のではなく、元々コンピュータを扱うのが仕事だったのに、人間を扱うマネージメントという役職に「転身」しなければならなかった。どうしてうまくいったのか、というのが記事3ページ目「自分の生き甲斐と趣味は『問題解決』」辺りから語られている。
 とはいえ記事全体が個人のゲーム観やハードウェア、体験の価値についてのトークなど多岐に渡り面白いので、やや長いかもしれないが頭から通して読むのを推奨したい。


 個人的にはカービィスマブラのディレクター、桜井政博ゲームデザイン論に強く関心がある。なので氏の上司だったという側面が、岩田聡に対するイメージの大部分を占めている。

岩田 (略)
   あえて「桜井くん」と言いますが・・・・
   彼がゲームの仕事をはじめたとき、
   つまりHAL研究所という会社に入ったときの
   最初の上司が私なんです。



 故人が新しい何かを生み出すことはない。しかし、これまでのゲームの歴史を振り返る中で、これからの娯楽の礎について考える中で、岩田聡の名前が忘れられることはないだろう。心より、お悔やみ申し上げます。

*1:東京ゴッドファーザーズ』のエンドクレジットに鈴木慶一の名前を見つけたときもMOTHER2の作曲者のひとりだと覚えていた

*2:そういえばこの記事もほぼ日の永田氏が構成だった